述而第七

論語
述而じゅつじ第七(凡三十七章)

07-01 子曰、述而不作、信而好古、竊比於我老彭。
いわく、べてつくらず、しんじていにしえこのむ、ひそかに老彭ろうほうす。
子曰く、私は古人の言葉を受け伝え述べるだけで、自ら作り出すことはしない。それら古き良きものを信じて好み、密かに尊敬する老彭のやり方を真似ている。
07-02 子曰、默而識之、學而不厭、誨人不倦、何有於我哉。
いわく、もくしてこれり、まなんでいとわず、ひとおしえてまず、われいていづれからんや。
子曰く、物事の道理を聞いて黙って心に記憶し、熱心に学び厭きることなく、人に教えて倦まないこと。我はこの内いずれも出来ていないのだ。
07-03 子曰、徳之不脩、學之不講、聞義不能徙、不善不能改、是吾憂也。
いわく、とくこれおさまらざる、がくこれこうぜざる、いてうつるにあたわざる、不善ふぜんあらたむをあたわざる、これうれいなり。
子曰く、仁義礼知などの徳を修めるに至らないこと、学ぶべき学問が明らかにならないこと、必要な時に行動できないこと、良くない所を改めることが出来ないこと、これを私はいつも心配している。
07-04 子之燕居、申申如也、夭夭如也。
燕居えんきょするや、申申如しんしんじょたり、夭夭如ようようじょたり。
孔子が何もせずおられる時は、体はゆったりしており、顔色はにこにこしている。
07-05 子曰、甚矣吾衰也、久矣吾不復夢見周公。
いわく、はなはだしいかなおとろへたるや、ひさしいかなわがまたゆめ周公しゅうこうず。
子曰く、私も甚だしく衰えたことだ。もはや久しく周公を夢に見なくなった。
(周公は名を旦といい、周の文王の子で武王の弟である。成王を補佐し法律制度を作り、周の王室の基礎を定めた聖人である)
07-06 子曰、志於道。據於徳。依於仁。遊於藝。
いわく、みちこころざし、とくり、じんり、げいあそぶ。
子曰く、道に志せば心が常に正しくて他に向かわない。徳に拠れば道を心に得て失わない。仁に依れば徳性が常に働いて私欲が行われなくなる。芸に遊べば動くにつけやすむに付け徳性を養うものである。(学問修行の順序で、志を立てるのが第一であることを示したもので、道に志し→徳により→仁により→芸に遊ぶとも順序を間違えなければ自ずと徳を養うものである。)
07-07 子曰、自行束脩以上、吾未嘗無誨焉。
いわく、みずか束脩そくしゅうおこないてもっあがらば、われいまかつおしうることくばあらず。
子曰く、礼を以て(進物の一束の干し肉を持って)教えを求めに来るならば、私は今まで一度も教えなかったことはない。
07-08 子曰、不憤不啓、不悱不發、擧一隅、不以三隅反、則不復也。
いわく、ふんせずばけいせず、せずばはっせず、一隅いちぐうぐるに、三隅さんぐうもっはんせずば、すなわふたたびせず。
子曰く、自分で悩み、考えない者には指導しない。自分の考えを言葉にすることが出来ない時は、言葉にして教えない。四隅あるものなら、一隅の道理を挙げて三隅の道理を考えて返してくる様でなければ、教えを受ける素地がないので、再び教えはしない。
07-09 子食於有喪者之側、未嘗飽也。子於是日哭、則不歌。
ものかたわらにしょくすれば、いまかつかず。いてこくすれば、すなわうたわず。
孔子は喪中の人の側で十分に食べたことはなかった。孔子は人を弔って悲しみ泣いた日は、悲しみで歌など歌うこともなかった。
07-10 子謂顏淵曰、用之則行、舍之則藏、唯我與爾有是夫。子路曰、子行三軍則誰與。
子曰、暴虎馮河、死而無悔者、吾不與也必也臨事而懼、好謀而成者也。
顔淵がんえんっていわく、「これもちうればすなわおこない、これつればすなわかくる、ただわれなんじるか」子路しろいわく、「三軍さんぐんらば、すなわたれともにする。」いわく、「暴虎ぼうこ馮河ひょうがしてものは、われともにせざるなり、かならずやことのぞみておそれ、はかりごとこのんでさんものなり」
孔子が顔淵に向かって曰く、「我を用いれば全力を尽くし、用いられなければ退いて隠者として引き篭もる。この様な生き方ができるのは、私とお前だけであろう。」子路曰く、「もし先生が大軍を率いられるとしたら、誰とご一緒になさいますか」と尋ねた、孔子曰く「虎と格闘したり黄河を泳いで渡る様な向こう見ずな、死んでも後悔しない者とは、私は一緒にやらない。必ずや事に当たって懼れ、計画的に事を成す慎重な者でなければならない。」
07-11 子曰、富而可求也、雖執鞭之士、吾亦爲之、如不可求、從吾所好。
いわく、とみにしてもとくば、執鞭しつべんいえども、われ亦之またこれさん、もとからずば、このところしたがわん。
子曰く、富が人力をもって求めることの出来るものならば、私も鞭を使って人々を追い払う露払いの役をしても良い。人力でどうとも出来ることでないならば、自分の好きな生き方をしたい。
07-12 子之所愼、齋、戰、疾。
つつししむところは、さいせんしつ
孔子が特に意を用いて慎むことは祭祀のための斎戒、戦争、病気である。
07-13 子在齊聞韶、三月不知肉味、曰、不圖爲樂之至於斯也。
せいりてしょうく、三月さんげつにくあじらず、いわく、「はからざりき、がくすのここいたらんとは。」
孔子が斉の国におられた時、舜の音楽の韶を聞かれて感動し、三ヶ月間肉の味が解らない程でした。そして、
「思いもしなかった、舜の制作した音楽がこのように善美を尽くしていようとは」と言われた。
07-14 冉有曰、夫子爲衞君乎、子貢曰、諾、吾將問之。入曰、伯夷叔齊、何人也、曰、古之賢人也、曰、怨乎、曰、求仁而得仁、又何怨、出曰、夫子不爲也。
冉有ぜんゆういわく、「夫子ふうしえいきみたすくるか」子貢しこういわく、「だくわれまさこれわんとす」りていわく、「伯夷はくい叔斉しゅくせい何人なんぴとぞや」いわく、「いにしえ賢人けんじんなり」いわく、「うらみたるか」いわく、「じんもとめてじんたり、またなにをかうらみん」でていわく、「夫子ふうしたすけじ」
冉有が子貢に、「先生は衛の君をお助けになりましょうか。」と尋ねた、子貢は、「うん、私もそれが知りたかったところです。」と言って孔子の部屋に入り、尋ねた、「伯夷・叔斉はどの様な人物でしょうか。」孔子は、「古代の賢人だ。」
と言うと、子貢はさらに、「二人は国を譲って憾み悔いることはありませんか。」と尋ね、孔子は、「仁を為そうとして、仁を行い得たのである。また何で憾み悔いることがあろうか。」子貢は孔子の意中を悟り退出し、冉有に、「先生は衛の君を助けられないでしょう。」
(朱子の説:君子はそのいる国の大夫さえも誹らないから、ましてやその君を誹る様なことはしない。故に子貢は直接に衛の君のことを問わないで伯夷・叔斉のことを問うたのである。)ここには衛の国において家督を父子で相争っている背景がある。
07-15 子曰、飯疏食飮水、曲肱而枕之、樂亦在其中矣。不義而富且貴、於我如浮雲。
いわく、疏食そしくらい、みずみ、ひじげてこれまくらとす、たのしみまたうちり。不義ふぎにしてたっときは、われおい浮雲ふうんごとし。
子曰く、粗末な飯を食べ、水を飲み、肘を曲げて枕にする、そんな生活の中にも楽しみはある。不正に得た富と高い地位は、私にとっては浮雲のようにはかなく感じられる。
07-16 子曰、加我數年、卒 五十以學易、可以無大過矣。
いわく、われ数年すうねんくわえ、もっえきまなぶことをへしめば、もっ大過たいかかるし。
子曰く、私に数年の命を与えて易を学ぶ仕事を終えさせるならば、大きな過ちをしない様になるであろう。
(この時孔子は既に七十歳近くになっており”五十”は”卒”の誤りであろうと言う朱子の説に従う)
07-17 子所雅言、詩書執禮、皆雅言也。
つねところは、しょ執礼しつれいみなつねうなり。
先生が常に言って教えになるのは、詩と書と礼とであって、これらは常に言われる事柄である。
07-18 葉公問孔子於子路、子路不對。子曰、女奚不曰、其爲人也、發憤忘食、樂以忘憂、不知老之將至云爾。
葉公しょうこう孔子こうし子路しろう、子路しろこたえず、いわく、「なんじんぞいわざる、『ひとりや、いきどおりをはっしてはしょくわすれ、たのしみてもっうれいをわすれ、いのまさいたらんとするをらずとしかう』と。」
葉公が孔子のことを子路に尋ねた。子路は答えなかった。孔子が子路に言われるには、「お前は何でこう言わなかったのか『その人なりは、事物の道理を求めわからないと、憤りを発して食事も忘れ、理解できれば楽しんで憂いのあることも忘れてしまいます。このように学を好んで年の老いるのも知りません。』 と。」
07-19 子曰、我非生而知之者、好古敏以求之者也。
いわく、われまれながらにしてこれものあらず、いにしえこのみ、びんにしてもっこれもとめしものなり。
子曰く、私は生まれながら事物の道理を知っている者ではない。古を好んで敏感に事物をとらえ道理を悟ろうと求める者である。
07-20 子不語、怪力亂神。
かいりょくらんしんかたらず。
孔子は奇怪なこと、勇力のこと、逆乱のこと、鬼神のことは語らなかった。(奇怪なことは常道に反し、勇力のことは徳を妨げ、逆乱のことは治を害し、鬼神のことは人を惑わすからである)
07-21 子曰、三人行、必有我師焉、擇其善者而從之、其不善者改之。
いわく、三人さんにんおこなえば、かならあり、ぜんなるものえらんでこれしたがい、不善ふぜんなるものこれあらためる。
子曰く、三人で一緒に事を行えば、必ずそこに我が師を見出すことが出来る。善い人の良いところを見習い、善くない人の悪いところを自分にあてはめて改める。(三人には自分が含まれる)
07-22 子曰、天生徳於予、桓魋其如予何。
いわく、てんとくわれしょうぜり、桓魋かんたいわれ如何いかんせん。
子曰く、天は私に徳を授けた、どうして桓魋が私をどうすることができようか。(孔子が宋へ行った時、桓魋が孔子を殺そうとしたのを見て、弟子が恐れたから、孔子は弟子達を慰めるために発せられた言葉)
07-23 子曰、二三子、以我爲隱乎。吾無隱乎爾。吾無行而不與二三子者。是丘也。
いわく、二三子じさんしは、われもっかくせりとすか。われなんじかくすことし。われおこなうとして二三子じさんししめさざるものし、きゅうなり。
子曰く、諸君は私が隠して残らず教えないと思っているのか。私は諸君に何も隠してはいない、私は何をするにも諸君に示さないものはない、それが私なのだ。
07-24 子以四教、文行忠信。
よつもっおしう、ぶんこうちゅうしん
孔子は四つの事柄を以て人を教えた。それは文(詩書より学ぶこと)、行(学んだことを実践すること)、忠(誠実を尽くすこと)、信(偽りのないこと)です。
07-25 子曰、聖人、吾不得而見之矣、得見君子者、斯可矣。子曰、善人、吾不得而見之矣、得見有恒者、斯可矣。亡而爲有、虚而爲盈、約而爲泰、難乎有恒矣。
いわく、聖人せいじんわれこれず、君子者くんししゃるをば、なり。いわく、善人ぜんにんわれこれず、つねものるをば、なり、くしてりとし、むなしくしててりとし、やくにしてたいす、かたいかなつねること。
子曰く、「聖人を私はとうてい見ることが出来ない、君子を見ることが出来れば、それで十分だ。」子曰く、「仁者である善人を私はとうてい見ることが出来ない、常に久しく変わらない人を見ることが出来れば、それで十分だ。無くても有る様にし、虚しいのに満ちている様にし、貧しいのに豊かな様にする。常に久しく変わらないことは難しいことだ。」
07-26 子釣而不綱、弋不射宿。
つりしてあみせず、よくして宿しゅくず。
孔子は釣りをするけれども、網を用いて魚を捕ることはなかった。飛ぶ鳥を射ることはするけれども、巣の鳥を射ることはしなかった。
07-27 子曰、蓋有不知而作之者、我無是也、多聞擇其善者而從之、多見而識之、知之次也。
いわく、けだらずしてこれものらん、われこれし、おおいてぜんなるものえらんでこれしたがい、おおこれしるすは、これるのつぎなり。
子曰く、真に道理を知らないでみだりに事をなすものがあるかもしれないが、私はそんなことはしない。多くを聞いてその中から善なる者を選んでこれに従い、多くの善い事悪い事を見てこれを記憶しておくのは、真に道理を知ることはできなくとも、知る者の次に位することができる。
07-28 互郷難與言、童子見、門人惑。子曰、與其進也、不與其退也、唯何甚、人潔己以進、與其潔也、不保其往也。
互郷ごきょうともがたし、童子どうじまみえんとす、門人もんじんまどう。いわく、「すすむことをゆるし、退しりぞくをゆるさず、ただなんはなはだしきや、ひとおのれいさぎよくしてもっすすまば、いさぎよきをゆるさん、むかしせず。」
互郷という風儀が悪くて道理の通じぬといわれた土地から、ある時少年が孔子に会いに来たが、門人は戸惑った。孔子曰く、「その人が進んできて会うことを許すばかりであり、その人が退いて後に不善を為すことを許さず、ただ能く自らを潔くして向上させようとするならば、その人の潔きことを許すばかりであり、その人の過去の行いを心に留めはしない。」
07-29 子曰、仁遠乎哉、我欲仁、斯仁至矣。
いわく、じんとおからんや、われじんほっすれば、ここじんいたる。
子曰く、仁は遠くにあるものではない、自分が求めようと思えば、心に応じてすぐにも仁に至るものである。
(仁は心の徳で外にあるものではなく内なる自らの心で行うものである)
07-30 陳司敗問、昭公知禮乎。孔子曰、知禮。孔子退、揖巫馬期而進之、曰、吾聞君子不黨、君子亦黨乎、君取於呉、爲同姓、謂之呉孟子、君而知禮、孰不知禮。巫馬期以告、子曰、丘也幸、苟有過、人必知之。
ちん司敗しはいう、「昭公しょうこうれいるか。」孔子こうしいわく、「れいる。」孔子こうし退しりぞく、「巫馬期ふばきゆうしてこれすすめていわく、「われく『君子くんしとうせず』と。君子くんしまたとうするか、きみよりめと同性どうせいたり、これ呉孟子ごもうしう、きみにしてれいらば、たれれいらざらん」巫馬期ふばきもっぐ、いわく、「きゅうさちなり、いやしくもあやまらば、ひとかならこれる。」
陳の国の司敗の官が孔子に、「昭公は礼を知っていらっしゃいますか」と尋ねた、孔子は、「礼節を知ってらっしゃいます。」
と答えた。孔子が退いた後、巫馬期を呼び寄せて言うには、「私は『君子は非行を隠すことはない』と聞いておりますが、君子もまた非行を隠すことがありますか。昭公は呉国より妻をめとられたが、魯と呉は同姓であったため、これを隠そうとして呉孟子と呼んでおります。(同姓との結婚は許されないのに)この様な人物が礼を知っているするならば、誰も礼を知らない人はおりますまい。」と。その後で巫馬期が孔子にこのことを話すと、孔子曰く「私はなんと幸せ者なのだろう。もし私が間違いを犯しても、誰かがそれを正してくれる。」
07-31 子與人歌而善、必使反之、而後和之。
ひとうたってくば、かならこれはんせしめ、しかのちこれす。
孔子が人と一緒に歌って、歌がよいのを見ると、必ずこれをもう一度歌ってもらい、その後に自ら歌って合唱された。
07-32 子曰、文莫吾猶人也、躬行君子、則吾未之有得。
いわく、ぶんわれなおひとごとくなることからんや、君子くんし躬行きゅうこうするは、すなわわれいまこれることらず。
子曰く、文章は私も人並みに出来ないことはなかろうが、自ら君子と言うべき人の行いをすることは、私はまだ十分にできない。
学問においては私はそれなりの自信を持っているが、人格者としての実践となるとまだまだ自信を持つには至らない。
07-33 子曰、若聖與仁、則吾豈敢、抑爲之不厭、誨人不倦、則可謂云爾已矣、公西華曰、正唯弟子不能學也。
いわく、「せいじんとのごときは、すなわわれえてせんや、そもそもこれまねしていとわず、ひとおしえてまず、すなわ爾云しかいうときのみ」公西華こうせいかいわく、「まさただ弟子ていしまなぶことあたわず。」
子曰く、「私自身、聖人や仁者の様なことはとても出来ることでは無い。私はそのような者ではなくそれらの道を追い求めて、飽きることなく人に教えることだけだ。」公西華曰く、「正にそれこそ我ら弟子たちの真似できぬことなのです。」
07-34 子疾病、子路請祷、子曰、有諸、子路對曰、有之、誄曰、祷爾于上下神祇、子曰、丘之祷久矣。
やまへいなり、子路しろいのらんとう、いわく、「りや」こたえていわく、「これり、るいいわく、『なんじ上下しょうか神祇しんぎいのる』と」いわく、「きゅういのることひさし。」
孔子の病気が重くなった時、子路が神に祈ろうと孔子請うた。孔子曰く、「祈る道理があるかどうか。」子路は、「あります、弔いの言葉に『汝を天地の神祇に祈る』と。」孔子曰く、「それならば私は普段から天地の神に祈りを捧げてきた。」
07-35 子曰、奢則不孫、儉則固、與其不孫也、寧固。
いわく、しゃなればすなわ不遜ふそんけんなればすなわなり、不遜ふそんよりは、むしなれ。
子曰く、贅沢に暮らすと傲慢になる。倹約であると品がなくなる。傲慢になるより品がない方が良い。
07-36 子曰、君子坦蕩蕩、小人長戚戚。
いわく、君子くんしたいらかにして蕩蕩とうとうたり、小人しょうにんとこしえ戚戚せきせきたり。
子曰く、君子は穏やかでゆったりしている。小人は絶えず心配事が絶えない。
07-37 子温而厲、威而不猛、恭而安。
おだやかにしてはげしく、あってたけからず、うやうやしくしてやすし。
孔子は穏やかでありながら情熱的で、威厳がありながら粗暴な所が無く、恭しくありながら安らかであった。

泰伯第八